2016年3月13日日曜日

受難節に寄せて ー 「涙のつぼ」(2)

牧師 山口 雅弘

 イエスの十字架への道を思いながら、「涙のつぼ」というものが世界各地にあることを思い起こした。

 エジブトのカイロにも「涙のつぼ」があるそうだ。私は写真でそれらを見たことがある。小さくさまざまな形の「涙つぼ」の中で、「クレオパトラの涙つぼ」というものに心惹かれた。それはルリの石で作られ、背の高いものだった。興味深いことに、世界最古のブドウの原種で作ったグルジアワインは、「クレオパトラの涙」と呼ばれている。何不自由なく生き、権力を持ったクレオパトラも、独りそっと涙を流してワインを傾けたのだろうとしばし思いめぐらした。


 エジプトだけでなく、古代の中国にも、日本にも「涙つぼ」があったようだ。犬山城に行ったことはないが、天守閣の資料展示の中に「涙つぼ」があり、肉親の死を悼む「涙受けのつぼ」だという説明が付けられていると聞く。実際に使ったのものではないようだが、人の悲しい思いがこの「涙つぼ」に込められているのだろう。

 「涙つぼ」の多くは、特殊な人たちが持つ高価なものではなく、庶民の誰でも手に入れることのできる、つまようじ入れほどの小さな「つぼ」であったようだ。世界の至る所で、このような「涙つぼ」が出てくるのを見ると、人間の哀しみの深さ、広さを「涙つぼ」は示しているのだろう。


 今でこそ「涙つぼ」は作られていないが、依然として人は涙を流し続けている。悲しいことを経験し、苦しい問題に打ちのめされて涙を流す。また、自分の醜さ、なさけなさ、傲慢の罪深さに涙を流すこともある。あるいは、生きることに疲れ果て涙を流し、社会の片隅に追いやられ、差別され、踏みにじられて涙を流す。その涙さえ枯れるほどに、哀しみの底に追いやられることもあるだろう。
人ごとではなく、私たち一人一人も涙を流すことが少なくない。しかし、多くの人が涙の谷間で生きていることを自覚する時に、目の前にそっと涙を流している人がいることに気付かされることがあるのだろう。

 イエスは、人の目から涙をぬぐう方として人を愛す生き方を貫かれた。そして、人を慰め癒すだけでなく、たくましく生きていく力をも与えた。このイエスの愛を、私たちは携えて生きていくように促されている。

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