2016年4月17日日曜日

心は内に燃えたではないか

牧師 山口 雅弘


  キリスト教は、大きな挫折と権力による「敗北」から始まったと言ってよい。イエスは、「神の愛」と「神の国の福音」を宣べ伝えた。そして、すべての人は違いを持ちつつ、平等で対等な者として「尊い命と人生」を与えられ、生かされていることを示した。とりわけ弱く小さくされた人々は、「互いに愛し合う世界」において新しく生きる生命を与えられ、人生の道を拓かれていった。

   しかし、イエスは十字架につけられ、殺された。イエスと共に歩む人々は、挫折と敗北の哀しみを背負って生きざるを得なかった。とどのつまり、権力による暴力の勝利であるかのように見えた。十字架による処刑を前に、イエスに背を向けた弟子たちの「負い目」、イエスを失って落胆する弟子たちの姿、また希望を失って散りじりになっていく現実を、聖書は包み隠さずに語っている。

  その時、エマオに旅する二人の弟子は、道ずれの人によって「聖書全体にわたり、…説き明かされて」、それが復活のイエスであったことを「理解・認識した」とルカ福音書は語る(24章、他)。つまり、聖書の語りかけ(メッセージ)を通して、復活のイエスとの実存的な「出会い」を与えられたと聖書は語るのである。

   弟子たちは、「聖書の解き明かし」を聞くことを通して、イエスの出来事を思い巡らし、イエスの壮絶な死と自分自身を見つめ直していた。そこで、イエスの愛を深く想い起こし、「互いに心が内に燃える」経験を与えられたのであった。

   次週の礼拝後に、稲城教会の総会を予定している。「教会総会」と言えば肩苦しく感じ、気後れする人も少なくないだろう。教会がこの世の組織であるからには、宣教や諸活動の反省と展望、経済的「運営」のことを検討しなければならない。さらに、教会の歩みの不確かさや不足を思わざるを得ない。

   けれども教会総会では、教会に集うすべての人が、不確かさや弱さの中で「聖書のメッセージ」を聞き、祈りをもって新年度に向かって歩み出すことを大切にしたい。「礼拝」をささげることを中心に、奇をてらった実践だけを求めるのではない。イエス・キリストに支えられてこそ教会の歩みがあることを互いに「認め」、「互いの心が内に燃える」経験を分かち合う出発の時にしたいと心から願う。
神への感謝と祈りがある所に、どのような困難があろうとも、共にいるイエスに応える歩みと希望が与えられる。これは確かである。

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