2017年8月6日日曜日

夏の暑い朝―平和聖日を覚えて

牧師 山口 雅弘

1945年8月6日(月)、雲一つない快晴の日、米軍爆撃機「エノラ・ゲイ」が「リトルボーイ」という原子爆弾を搭載し広島の上空にやってきた。8時15分、ついに人類史上初の原子爆弾が投下された。地上600メートルの上空で閃光を放ち、火の玉が炸裂。後に「ピカドン」と呼ばれるようになった。火球の中心温度は100万度を超え、爆心地周辺の地表温度は3000~4000度に達したという。いくら想像力を働かせても、このことを思い描くことはできない。しかし丸木位里・俊ご夫妻は35年かけて、広島の地獄を「原爆の図」に描いている。14万人以上の命が一瞬にして奪われ、原爆による被災者また放射能被害者は今も苦しんでいる。

戦後、広島の地に「原子力発電所」を建設する案が浮上したという。原子力の開発継続を被爆地の広島で行おうとしたとのことである。「原爆と原発」はそもそも結びついていることを知らされる。だから日本政府と企業は、原子力発電をやめようとしないのであろうか。人間はどこまでも「悪魔」になれるのかと思わざるを得ない。それを許す私たちはどうであろうか。

私たちの地球では、絶えずどこかで必ず朝を迎える人がいる。人だけではなく、生きとし生けるものすべてが朝を迎える。それは希望の朝であろうか。それとも哀しみや苦しみの朝、一瞬にして命を奪う朝であろうか。

グァムは、「常夏の楽園」と知られ、そこで迎える朝は言葉を失うほどすばらしいそうだ。年間100万人以上の日本人が「常夏の島」グァムを訪れるという。しかし70数年前、日本軍がグァムに進撃し、「大宮島」と改名し支配していた。1944年7月、5万人の米軍が反撃し、日本軍2万人が「玉砕」した。多くの民間人や島民も殺され、環境も破壊された。グァムの北サイパン沖のテニアン島から、広島、長崎への原爆搭載機が出撃したのである。

フィリピンの山々やジャングルを逃げまわった人々、中国や朝鮮半島で戦火におびえ殺されていった人々、また沖縄の血で染まる海に身を投じ、ガマ(洞窟)の中で声を潜めていた人々、その人々が迎えた暑い夏の朝はどんな朝だったのだろう。グァムが「平和の楽園」と呼ばれ、沖縄はリゾート地になっているが、歴史の現実を忘れ、今も沖縄の人々は不安の朝を迎えている。再び地獄の朝を迎え、人々が犠牲にならないとも限らない。

「忘却や無関心」と闘うことは、神の被造物すべての生命を大切にし、地球環境を大切にすることにつながる。このことを反芻しながら、暑い夏に弱い私は「ダルイ」とへばっている自分を情けなく思う。

2017年5月21日日曜日

あなたはどこにいるのか?

牧師 山口 雅弘



私たちは何となくあわただしく毎日を過ごしている。持て余すほどの時間があるのに、一所懸命になれることがなく毎日を過ごす人もいるだろう。また、病気などで何かしたくてもできない状態にいる人もいる。「時間」は万人に等しく一日24時間与えられているが、一日の時間の使い方、その過ごし方の積み重ねによって、それぞれの人生はずいぶん違ったものになるだろう。

少し前になるが、「人生の時間割」とも言うべき興味深い記録を読んだことがある。平均的アメリカ人の生涯が79年だとすれば(2014年の調査)、人生を次のように過ごしているという。 ― 食事に7年(準備・片づけを含む)、仕事に12年、娯楽に8年(仕事の付き合いではなく)、睡眠時間24年、おしゃべり3年、洗面・化粧・着替えなど5年半、そして教会に6カ月 ― これは比較的、教会に行くのが当然と考えるアメリカ人の統計だそうである。

私たちの場合はどうであろうか? 生涯の1/3を寝て暮らすのは何とももったいない気がするが、他のことに使う時間とその中味を見直す必要があるかも知れない。
一日単位で見ると、「一日の大切さ」をさほど感じないで、無意味なことに時間を費やして平気でいられることが多い。時には、無意味なことをすることも必要だと思うが、その結果の人生になるとすれば、豊かな人生を歩んでいると言えるだろうか。

面白おかしく日々を過ごすことができればそれも意味があるだろう。娯楽や遊び、また旅も人生を豊かにする。仕事に熱中するのもよい。その人にとって「大切なこと」を求めるのもよい。どれもこれもが、真実に自分の人生を豊かにし、有意義と思えるものならばなおのこと良い。

しかし、時として虚しさを感じ、生きがいを感じられなくて大切な「時間」が失われていくと思うこともあるだろう。そして、「死」によって地上のすべてが終わるとすれば…。

「あなたは、またあなたの大切な人はどこにいるのか」と神の問いかけと招きがあることを聖書は語る(創世記4章、他)。その招きに応えて神に立ち帰り、日曜日の数時間を、生涯の何時間かを礼拝を捧げるために用いることができたら、人生が変わるかも知れないであろう。

2017年5月7日日曜日

資  質 ?

牧師 山口 雅弘

久しぶりに「牧師の徒然草」を書いてみたい。
先日来、政治家の「失言、暴言、虚偽発言…」などで、「政治家の資質」が問われている。その「資質」をめぐり考えていて、宗教改革者の一人が「説教者(牧師)の資質」についておおよそ次のように語っていたことを思い起こした(メモによるので不正確かも知れない)。

牧師たる者は、① 色々なことをせず専任者であれ、② すべての人の悩み・苦しみを負え、③ 説教に苦労し、生命をかけよ、④ 雄弁であれ、 ⑤ よい頭脳を持て、⑥ よい記憶力を持て、⑦ 欠点をあげつらう者の批判をすべて耐えよ、⑧、⑨… 

宗教改革の激動の中での「心意気」としては分からないでもないが、これを知っていたら、私はとても牧師にはなれなかっただろう。また、その人が指摘する「信徒たる者の資質」は…、言わぬが花であろう。そのように語る宗教改革者は、どのような「資質」を持っていたのだろうか?

さまざまな問題で揺れ動く社会の中で、悩み苦しみ、重荷を負わされる人に寄り添い、失われた魂の救いを祈り求めながら生きようとしている人は、牧師に限らず常に自分が問われるであろう。ミリアムと弟モーセは、奴隷社会からの解放に歩み出そうとした時、神の前に「私は一体何者でしょうか」と問わざるを得なかった。イザヤも「自分は汚れた者でしかない」と告白せざるを得なかった。エレミヤも、そしてパウロも同様である。歴史に名を残されていない多くの人もそうであっただろう。神からの「召命」ですら、本当に自分への「召命」なのかと問わざるを得ない。従って、伝道者また牧師の「資質」を問われて、神の前に立つことのできる人が果たしているのだろうかと、自らを省みるほかない。

私たちは多くの矛盾や欠けを負っている。その現実の中で揺れ動き、自らの信仰的前提や思いこみを打ち砕きつつ聖書の語りかけに聴き、「失われた魂」の声に聴き、イエスの生命にふれて歩むことが求められていると思う。また、牧師・信徒・求道者などと分けることに「不遜」が隠れているのかも知れない。最初期のキリスト教には「牧師職」すらなかった。神は、すべての人を分け隔てることなく愛し、生かして下さることを心に刻みたい。